世の中には、“いるだけで感謝される人間”が存在する。大抵、それは美人だ。努力?貢献?そんなものは必要ない。なぜなら「顔」がすべての免罪符になるからだ。
たとえば、ある飲み会の夜。みんなでテーブルを囲みながら、誰が幹事をやるだの、料理はどれにするだのと慌ただしくしている中、彼女は15分遅れてやってきた。なぜ遅れたのか?特に理由はない。ただ「遅れても怒られない自分」をよく知っているからだ。しかも、ドアを開けた瞬間、誰かが「あっ、ゆうかちゃん(仮名)だ〜!お疲れ様〜!」と歓声を上げた。主役のご登場である。
その後、彼女は何をしたか?隣に座った男の話には適当に「へぇ〜」「やば〜」と3語以内で返しつつ、スマホの画面をスクロール。誰かがビールを注いでもらおうと声をかけると「うん、あとで〜」と目も合わせずに返す。みんなが「この料理分ける?」と皿を回していても、彼女は箸を動かさない。ただ、そこに「いる」だけ。周囲はなぜか満足している。理由は簡単、可愛いから。
「でもゆうかちゃん(仮名)、存在感あるよね〜」と誰かが言う。いや、それは違う。ただ顔面の圧が強いだけだ。発言ゼロ、リアクション極小、でもなぜか「盛り上げてくれてありがとう」と言われる摩訶不思議。こちらは話題を振り、笑いを取り、空気を読んで皿まで洗ったのに、「そういや、いたんだ?」くらいの扱い。なのに彼女だけがラストで「じゃ、また飲もうね〜!」と惜しまれながら退場していく。
あの光景はもはや宗教だ。信者たちは、彼女が笑えば「今日の会、楽しかったね〜」と語り、彼女が黙っていれば「ゆうかちゃん(仮名)ミステリアスで素敵」と脳内補完を始める。実際のところ彼女はただ眠かっただけなのに。
もちろん、美人が悪いわけではない。彼女はただ「生まれてきただけ」でこの特権を得ているのだから。問題は、我々がその構図に嬉々として従っていることにある。愛想ゼロ、貢献ゼロ、気遣いゼロ、それでも「また来てね♡」と言われる奇跡を目撃するたび、「顔がいい」という事実がどれほど無敵なのか、身に染みて理解する。
それでもなお、彼女が憎めない理由はただひとつ。我々の中にも、「あわよくば次は隣に座りたい」と願ってる誰かがいるからだ。